宇宙の物質の起源

 

 

 

問題の解決に向けて
最後に、これまで取り上げた問題のうち幾つかを同時に解決するアイデアがあるのでそれを簡単に紹介します。それは

インフレーション

と言われるものです。

インフレーション(inflation)は、宇宙膨張に使われるexpansionと同じように「膨張」という意味があるのですが、人工的にふくらませるというニュアンスがあるそうです。例えば自転車の空気入れはインフレータと言います。
ところで、インフレーションもビッグバンも経済用語としても使われていますけど何か宇宙と関係あるのでしょうか。

このアイデアは、ビッグバン理論のようにこれまで私たちが既に知っている物理の法則に基づくものではありません。オリジナルは、素粒子の大統一理論の枠組みで考えられたのですが、現在ではそのシナリオは否定されて他の標準模型を超えた理論が考えられています。
インフレーションは、次の2つの大きな柱からなります。
指数関数的膨張
宇宙のスケールが時間とともに指数関数的に増加した時期があったと考えます。この様な増加の仕方の例は宇宙の年齢のところで少しふれましたが、真空優勢のときに起こります。他にも可能性はあるのですが、オリジナルのシナリオでは、大統一理論に含まれるあるスカラー場が真空エネルギーを持つことで指数関数的膨張が起こると考えられました。現在のシナリオではそれとは別のスカラー場(=インフラトン)が真空エネルギーを持ち、それが宇宙のエネルギー密度のほとんどを担う時期があったことを想定します。
宇宙の再加熱
急激に空間が膨張すると宇宙のエネルギー密度も急激に減少します。特にインフレーションの直後はほとんど真空(温度もゼロ)に近い状態になっています。その後、それまでエネルギーの大部分を占めていたスカラー場の真空エネルギーが解放されて宇宙の温度が上昇します。これは丁度、ある種の相転移(例えば気体が液化するとき)で潜熱(気化熱)が解放されるのと同じです。この温度の上昇を再加熱といいます。この後、放射優勢の宇宙になり、ビッグバンのストーリーにつながります。

いつ、どのようにしてインフレーションが始まったかは考える理論によって様々です。しかし、これまでのビッグバン理論の成功に影響しないためには、電弱相転移温度(約100GeV)よりは前で起こっていなければならないでしょう。放射優勢のある時期にインフレーションが始まったとして、宇宙のスケールと温度の変化を大まかに図示してみましょう。


インフレーションによっていくつかの問題が解決されます。次にそれを見てみましょう。
地平線問題
地平線については前に説明しましたが、因果的に関係のついている領域の大きさで、時間に比例して大きくなります。一方空間のスケールは放射優勢の場合、時間の2分の1乗(平方根)、物質優勢の場合時間の3分の2乗に比例して大きくなります。(この図を参照)
この図から言えることは、現在の地平線の大きさは、時間をさかのぼると過去には地平線の外側にいたことになります。
現在の観測で見られるもの、つまり地平線の内側では、どの方向から来る背景放射の温度も一致しているので、現在の地平線の内側のすべての領域がずっと過去に因果的に関係がついていなければ、この一致は説明できません。ところが放射優勢や物質優勢の宇宙の膨張の仕方では、現在の地平線の内側の多くの領域は時間をさかのぼると因果的には関係がなかったことになります。
もし過去(光子が自由になる前)のある時期に、指数関数的膨張が起こったとすると、この問題は解決できます。
例えば、インフレーションが温度が1015GeVのときに起こったとすると、1024倍程度膨張すればよいし、温度が100GeVのときは1012程度膨張すれば地平線問題を解決できます。
平坦性問題
現在の観測では、宇宙のエネルギー密度が臨界密度に近く、宇宙の形は平坦に近いと述べました。
ここでは詳しく説明しませんが、エネルギー密度がどれだけ臨界密度に近いかを表す量:(エネルギー密度ー臨界密度)/エネルギー密度 という量は、空間のスケールの自乗に比例しています。この量は、現在は0に近いと言いましたが、光子が自由になる頃(現在よるスケールはずっと小さい)には、現在の値の10-16倍になります。つまり、光子が自由になる時期には、16桁以上の精度でエネルギー密度が臨界密度に一致していないと現在の観測を説明できません。これが平坦性問題と言われるものです。
この時期にこれだけ平坦であったことは、インフレーションが起こったとすると自然に説明できます。
背景放射の温度揺らぎ
宇宙が完全に一様では星や銀河を含む現在の宇宙にはならなかったでしょう。また、背景放射の温度にも10万分の1程度の温度の揺らぎがあることが観測されています。インフレーションはこの揺らぎの起源も与えているのです!
インフレーションのシナリオでは、スカラー場の真空エネルギーが支配的である時期に指数関数的にスケールが増大した時期があります。この時期にスカラー場が大きな量子揺らぎを持ちます。この揺らぎには、波長と強さの間にある関係があり、波長の長い揺らぎはインフレーションの後、地平線よりも長くなり重力の影響だけを受けて時間発展します。この揺らぎが宇宙のスケールが大きくなったときに再び地平線の内側に入って、エネルギーの揺らぎとなり、それが背景放射の温度揺らぎに反映されます。
現在観測される温度揺らぎは、大きさだけでなく、その波長との関係(スペクトル)まで、ある種のインフレーション理論が予言するものと合っています。

こうして見ていくとインフレーションは魅力的なアイデアのように思えます。インフレーションでこれら3つの問題は解決できることが期待されます。
ビッグバン理論は、宇宙膨張、背景放射、軽元素の存在比を説明できる自然な理論です。これらの説明にはよく知られている物理学だけを使っています。(一般相対論、統計力学、原子核物理)
しかしインフレーションを起こすとされる理論は、まだ私たちが知らない理論なのです。素粒子の標準模型の先にある理論ですが、それが何であるかはまだ分かっていません。従って、いつインフレーションが起こったのか? どのくらいの時間続いたのか? などの問題には答えることはできません。
逆に、インフレーションが起こったことを前提に、地平線問題や平坦性問題を解決することと、現在の背景放射の温度揺らぎを説明できることを要請することは、素粒子の標準模型の先にある理論を制限するのに利用されています。
インフレーションについては、それを起こす具体的な理論の研究以外にも、密度揺らぎの詳細な計算や再加熱のダイナミクスなど他にも現在進行中の問題があります。


ここでは、インフレーション理論が上の3つの問題を解決できることを述べましたが、これら以外にも未解決の問題があります。
宇宙のバリオン数の起源もうそうです。バリオン数はインフレーションの後にできたと考えるべきです。前だとインフレーションによってバリオン数は消えてしまうからです。ひょっとしたら再加熱時の非平衡状態でバリオン数ができたのかも知れません。
また、ダークマターの正体も、素粒子の新しい理論を考える上で重要な問題です。

これまで宇宙の未解決の問題とそれに対する取り組みを紹介しました。宇宙という広大な対象を相手にしているのに、いつの間にか問題は極微の素粒子の理論と密接に関係付いていることが見えてきました。この辺は現在の素粒子や宇宙の分野で活発に研究されているところです。